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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第3回鬱陵島と竹島


島根県隠岐郡隠岐の島町から157キロメートル先に竹島があり、竹島から92キロメートル先に鬱陵島があります。それぞれの距離は自動車の走行距離で計ってみると、157キロは国道54号線の起点である松江市宍道町から広島市まで、92キロは私の住む松江市浜乃木町から江津市までの距離です。大変遠いよう竹嶋松嶋隠岐図ですが、江戸時代隠岐の大西教保(のりやす)が書いた『隠岐古記集』には、「隠岐の漁師達は秋の晴れた日で北風の強い日には大満寺山(だいまんじやま・隠岐の島町にある海抜607メートルの山)から松島(現在の竹島)が見えると言う」とあり、海上を見慣れた漁師は157キロ先の竹島を俯瞰出来ると記しています。また昨年訪問した鬱陵島には海抜200メートル位の場所に92キロ先の竹島を見る望遠鏡設置の展望台がありました。前回言いましたように朝鮮王国は国民を島に行かせない空島政策を、日本でいう室町時代から明治初期にかけて実施しましたので、特に鬱蒼とした森のある鬱陵島へは日本人の進出がめざましいものがありました。鬱陵島の産物で特に知られたのは竹で、朝鮮の記録には篁竹(こうちく)という種類としていますが、竹の太さや島に渡った人が日本にもある種類と言っていますから孟宗竹(もうそうだけ)と思われます。江戸幕府の許可をもらってこの島へ毎年出掛けた米子の町人の大谷、村川両家に、各地の有力者は花活け(はないけ)にするからと鬱陵島の竹を注文しました。そしていつしか現在の鬱陵島は日本では竹島と呼ばれるようになりました。そして現在の竹島は江戸時代には松島と呼ばれていました。岩山の上に小さい松が生えていたから松島だとか、松竹梅のように竹の対句として松島とされたとか言われていますがはっきりとしたことはわかりません。明治時代になってこの松島が竹島に変わり現在に至ることになりますが、なぜ変わるのか関心を持ってその時を待っていてください。

竹嶋絵図さて、江戸時代に竹島と呼ばれた鬱陵島の最も良い港は浜田浦(はまだうら)と名付けられています。現在は道洞(とどん)と呼ばれていますが、両側に突き出た岩山を持つ風や波から船を守れる良港です。なぜ浜田浦かについては、幕末から明治初期にかけて活躍した伊勢(現在の三重県)の学者松浦武四郎(まつうらたけしろう)は、その著『竹島雑誌』に「石見の浜田周辺の人達が良く訪れるから」と書いています。確かに江戸時代に外交をまとめた『通航一覧』(つうこういちらん)には、浜田に隣接する長門(ながと・山口県の日本海に面した地域)の庶民が鬱陵島へ渡って切って来た竹を盛んに売りさばいていると書かれています。また、のちに鬱陵島へ渡ることを幕府が禁止しますが、それにもかかわらず密航しそれが発覚し処刑された人に浜田の八右衛門という人物がいます。一方、現在名古屋大学で活躍されている池内敏(いけうちさとし)先生は、浜田浦とは「石見の浜田へ鬱陵島から通ずる港」の意味ではないかとおっしゃっています。隠岐の福浦から鬱陵島へ渡ったひとは普通往路も隠岐を目指しますが当時の船は帆船で風の力を利用しましたので、風向きによっては浜田へ帰着することがあったのです。
江戸時代の鬱陵島についてはこれくらいにして今度は現在の竹島、江戸時代の松島についてお話ししましょう。米子の町人大谷家の記録に「鬱陵島に渡りだしてからしばらくしてこの島を発見し、この島への渡海も幕府の許可をもらい中継地として利用したりアシカ漁を行なった」と書かれたものがあります。現在の鬱陵島から竹島を見ると、竹島はかなり南東の方向にありますので、隠岐から直線的に鬱陵島を目指した場合、なかなか発見出来なかったという証言もあります。この証言をなさった隠岐郡西ノ島町ご在住の方は、4回の往復時一度も竹島を見ることはなかったとおっしゃっています。また昭和26年(1951)年11月、韓国の李承晩大統領の海洋自主宣言、すなわち李承晩ライン設定の2ヶ月前に竹島を目指された、当時の境高校(鳥取県境港市)水産科の吉岡博さん等は先に鬱陵島を眼にし、あわてて船の進路を修正したと語っておられます。
江戸時代の松島に関して印象的なのは、米子の町人村川家が、この島のアシカ猟に執念を燃やしたことです。1640年頃の現在の鳥取市の商人石井宗悦(そうえつ)が書いた手紙に、まずそのことが書かれています。

1年余り前に鳥取県米子市立山陰歴史館で、村川家所蔵と伝えられる江戸時代の「松島絵図」の写真が見つかりました。現在の竹島の海図と比較しても遜色のない、たびたび行った人でないと描けないと思われる立派な絵図です。原図を是非見たいのですが現在村川家の血脈の方は米子市にはおられず、手を尽くして調べましたが目下手がかりもなく残念に思っています。
アシカ猟ではアシカを網で生け捕りにしたり、棒や銃で殺傷して捕獲しました。利用するのはその身を釜の中で煮沸し油を取ることが中心でした。アシカ1頭から数斗(1斗は10升)取れると書いたものがありますが、それを桶につめて持ち帰り、石鹸とか接着剤の膠(にかわ)に加工しました。竹島のアシカは明治38年(1905)年、竹島が隠岐の五箇村の所属になりますと隠岐の人達が島根県の許可をもらい、会社組織で捕獲しだしました。その捕獲数は明治39年約1,300頭、40年約2,000頭、41年約1,800頭に上りました。村川家が猟をしていた江戸時代の竹島にはもっと多くのアシカがいた可能性があります。

(主な参考文献)
・大谷家古文書
・村川氏舊記
・新修鳥取市史


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