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韓国が知らない10の独島の虚偽

第3回

「日本は、欝陵島に渡る船…竹島の領有権を確立しました。」の正当性

東北アジア歴史財団は、日本の外務省が刊行した「竹島問題を理解するための10のポイント」の内、「3.日本は、欝陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」を以下のように要約し、次の1〜3を根拠に、「日本の主張はこれだから誤りだ」と批判した。


【要約】

「‘日本は17世紀中葉に独島の領有権を確立した,江戸時代初期(1618年)、鳥取藩米子の住民の大谷、村川両家は、幕府から欝陵島渡海免許を受け、欝陵島で独占的に漁業をし、あわびを幕府などに献上した。すなわち、日本は欝陵島に渡海するため、航海の目標や途中の停泊場とし、またアシカやアワビ捕獲のよい漁場として独島を利用して、遅くとも17世紀中葉には独島の領有権を確立した。」


 

【韓国側の批判1】

渡海免許は自国の島に渡海するには必要がない文書である。これはかえって日本が欝陵島・独島を日本の領土として認識していなかった事実を反証している。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 東北アジア歴史財団は、渡海免許を誤解している。戦国時代から江戸時代初期にかけ、貿易などで国外に出る場合に発給されたのは朱印状である。朱印状には豊臣秀吉や江戸幕府の将軍など、時の権力者の朱印が捺されていた。これに対し、鳥取藩米子の大谷家と村川家に発給された渡海免許は、老中など幕閣が連署する奉書の形式がとられ、竹島(欝陵島)への独占的「渡海」が許されていた。事実、江戸幕府が寛永12年(1635年)に日本人の海外往来を禁じても、大谷、村川両家による竹島(欝陵島)への渡海はその後も続いた。これは幕府が竹島(欝陵島)を外国として認識していなかった証左である。

 さらに寛永20年(1643年)、朝鮮通信使の求めに応じ、幕府の儒臣林鵞峰と林読耕斎が編集した『日本国記』(「隠岐国」条)には、「隠岐の海上に竹島あり。竹多く、鰒多し。味甚だ美。海獣を葦鹿という」と記され、竹島(欝陵島)は日本領として認識されていた。

 それは、同じ儒臣の人見竹洞の『添長日録』でも確認ができる。寛文6年(1666年)、竹島に渡海した大谷家の船が朝鮮の長●(髟【かみがしら】の下に耆)に漂着した際、人見竹洞は幕府の命で朝鮮政府から送られた書簡を和訳することになった。その時、人見竹洞は、米子の居民が竹島(欝陵島)に渡海することになった経緯を直接、林鵞峰から聞いていた。それは元和4年(1618年)、池田光政(松平新太郎)が播磨から因幡・伯耆国(鳥取藩)に入部する際、監使の阿倍四郎五郎正之の斡旋により、米子の居民が「竹島に来往」することになった顛末である。林鵞峰は、それを「是、昔日、正之の談ずる所」と、阿倍正之からの直話としている。

 だがその渡海免許も元禄8年(1695年)12月、幕府が鳥取藩に「取り寄せ」を命じたため、翌年2月に返納された。竹島は朝鮮領の欝陵島であるとした対馬藩の進言を容れ、幕府が竹島(欝陵島)への渡海を禁じたからだ。「渡海免許は自国の島に渡海するには必要がない文書」とした東北アジア歴史財団の批判は、歴史的に根拠のない主張である。

 

【韓国側の批判1】

17世紀中葉の日本の古文献である『隠州視聴合記』(1667年)には、「日本の西北側の限界を隠岐島とする」と記録されており、当時、日本が欝陵島・独島を自国の領土から除外していたことが分かる。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

『隠州視聴合記』(1667年)の記述を根拠に、東北アジア歴史財団は「当時、日本が欝陵島・独島を自国の領土から除外していた」とした。だがその論拠とする『隠州視聴合記』所収の「国代記」に、「日本の西北側の限界を隠岐島とする」とした記述は存在しない。
『隠州視聴合記』は1667年(寛文7年)10月、松江藩の齋藤豊仙が編纂した地誌である。当時、隠州(隠岐島)は松江藩の預り領で、行政は松江藩が担当した。その松江藩の齋藤豊仙が郡代として隠岐島に赴くのは寛文7年8月、鳥取藩米子の大谷家が欝陵島からの帰路、朝鮮に漂着した翌年である。『隠州視聴合記』に、竹島(欝陵島)が松江藩の呼称である磯竹島として登場するのも、幕府の許可を得た大谷・村川両家が欝陵島に渡る際、隠岐島を中継地としていたからである。『隠州視聴合記』の「南方村」条で、「磯竹島に渡る者」、福浦の弁才天女で風待ちし、「帰帆の無事を祈った」とするのは大谷・村川両家のことである。

 だが東北アジア歴史財団は、その齋藤豊仙が「日本の西北側の限界を隠岐島」にしたとし、『隠州視聴合記』所収の「国代記」を証拠に、「当時、日本が欝陵島・独島を自国の領土から除外していた」と主張するのである。では漢文で書かれた「国代記」には、どのように記述されていたのだろうか、当該部分を現代語訳すると、次の通りである。

 隠州は北海の中にある。[分註、按ずるに、倭訓の海中、「遠き」と言う。それゆえの名なのだろうか]。その南東の地にあるのを島前という。知夫郡・海部郡がこれに属している。その東の地に位置するのは島後という。周吉郡・穏地郡がここに属す。その政庁は、周吉郡の南岸、西郷の豊崎である。是より南、雲州美穂の関に至るには三十五里。南東、伯州赤碕浦に至るには四十里。南西、石州温泉津に至るには五十八里。北より東に至る間には、往きつく地はない。北西の間には、行くこと二日一夜で松島(現、竹島)がある。また一日の距離に竹島(現、鬱陵島)[分註、俗に磯竹島と言う。竹・魚。海鹿が多い]がある。この二島は無人の地で、朝鮮が見えることは、出雲から隠州(隠岐島)を望み見るのと同じで、それだから日本の北西の地は、この州を限りとする。

 齋藤豊仙が「国代記」の中で何を伝えたかったのか、意図は明確である。齋藤豊仙は、下図のように隠岐島の地理的特性を説明するため、隠州(隠岐島)を基点に、四方の日本領との関係を距離で表示していたのである。

従って、基点が隠岐島に置かれた以上、齋藤豊仙が隠州を「日本の西北側の限界」とすることはない。それを東北アジア歴史財団は、何を根拠に、隠岐島を「日本の西北側の限界」としたのだろうか。それは「日本の北西の地は、この州を限りとする」とある「この州」を、そのまま隠州の「州」と読んだのだろうか。

 とすれば東北アジア歴史財団の解釈は、二つの点で正しくない。それは文意上と、漢文読解の両面である。まず齋藤豊仙は、隠岐島を基点に、竹島(欝陵島)は北と西の間にあるとした。続いて齋藤豊仙が「日本の北西の地は、この州を限り」とした論拠は、「朝鮮が見える」にある。原文には、「見高麗、如自雲州望隠岐。然則日本之乾地、以此州為限矣」(高麗(朝鮮の意)を見ること、雲州より隠岐を望むがごとし。しからばすなわち日本の北西の地、この州を限りとなす)と記されている。そしてこの漢文を読解するポイントは、「然則」にある。これは「しからばすなわち」と読み、前文を承けて後文に繋ぐ詞だからである。つまり齋藤豊仙が「限り」(境界)とした根拠は、前文の「朝鮮が見える」にあって、異国の「朝鮮が見える」ことが境界とする理由だったのである。「国代記」の中で「日本の北西の地」と表現したのは、異国である朝鮮と対比しているからである。では隠岐島からは「朝鮮が見える」のだろうか。齋藤豊仙が「見える」としたのは、竹島(欝陵島)である。「この州」を隠州とした東北アジア歴史財団の漢文解釈は、正しくないのである。

 ではなぜ、東北アジア歴史財団は「この州」を隠州と解釈したのか。それは「島」を「州」とも表記する漢文独特の読み方を無視したことによる。事実、「島」を「州」と表記する例は、朝鮮にもある。李●(さんずいに翼)は、日本と朝鮮の欝陵島の領有権争いを論じ、欝陵島を「一州(一島)」(注1)と表現しているからだ。

 ところが東北アジア歴史財団は、根拠がないまま「国代記」に記された「この州」を「隠州(隠岐国)」とした。これは名古屋大学の池内敏氏が「この州」を隠州(隠岐国)と読んだため、それを奇貨としているからだ。だが池内敏氏の研究(注2)は、『隠州視聴合記』全巻に登場する「この州」の用例をことごとく検討するという、奇抜なものであった。

 しかし『隠州視聴合記』の「国代記」は、少なくとも「隠州」、「民部図帳曰」、「古老伝曰」で始まる三つの文章で構成され、文章としては個々に完結している。従って、「この州」も、当然のことながら、上記の現代語訳した「国代記」の中で解釈しなければならない。

 それを池内敏氏は、『隠州視聴合記』巻二の「元谷村」条に、「隠州戌亥之極地」(隠州は西北の極地)とした記述があるとし、それを根拠に、「国代記」の「日本之乾(戌亥)地、以此州為限矣」の「此州」も隠州を指している、というのである。

 だが一見、学術的に見えるこの池内氏の研究には、致命的な誤謬がある。池内氏が根拠とした「隠州戌亥之極地」の一文は、齋藤豊仙が元谷村の日月祭について私見を述べた次の按語の中にあり、そこには「隠州戌亥之極地」を解釈する上で重要な記述があるからだ。

 「按ずるに、此の日月の祭、古の遺法か。書に曰く、「昧谷、寅(謹ん)で日(太陽)を納め餞(送)る」。本朝、またかつてこの礼を行うか。隠州は戌亥の極地、昧暗なり。元の音と相近きなり。上古、この地において日を納め餞る。またいまだ知るべからず。古を好む人のため、しばらく記してこれに備う」

 この按語を見ると、池内氏が主張するような「隠州戌亥之極地也」とした記述はなく、「隠州戌亥之極地、昧暗也」と記されている。実はこの按語では、池内氏が伝えない「昧暗なり」が、重要な役割を果たしているのである。齋藤豊仙は、八王子社の日(太陽の)神と常楽寺の月神を合祭する元谷村の日月祭を考証し、その日月祭の由来を、隠州が「昧暗」であることに求めているからである。それは按語の中で、元谷村の日月祭を『書経』(「昧谷(太陽の沈む所=暗い谷=日が入る谷)、寅(謹ん)で日を納め餞(送)る」)に由来する「古の遺法」とし、その根拠を『書経』の「昧谷」と元谷村の音が近く、隠州が「昧暗」であることに置いた事実でも明らかである。この時、齋藤豊仙が「隠州は戌亥の極地」としたのは、日本本土から見て、隠州が太陽の沈む所、「昧谷」「昧暗」に当たるからである。

 それを池内敏氏は、肝心の「昧暗」を無視して「隠州戌亥之極地」のみを金科玉条とし、「国代記」の「日本の北西の地は、この州を限りとする」の「この州」も隠州なのだ、と力説(注3)してやまない。だがそれは齋藤豊仙の按語と同様、牽強付会の誹りを免れない。

 なぜなら「元谷村」条で、「隠州は戌亥(北西)の極地」とした「北西」と、「国代記」の「日本の北西の地」とでは、「西北」とする基点が全く異なるからだ。「国代記」は隠岐島を基点とし、その西北に位置する島を日本の限り(境界)とした。「元谷村」条で「隠州は戌亥の極地」としたのは、日本本土が基点となっている。同じ「北西」でも、似て非なるものなのである。日本本土から見て「隠州は戌亥(北西)の極地」とした「元谷村」条を根拠に、隠岐島を基点に、「日本の北西の地は、この州を限り」とした「国代記」の「この州」を隠州(隠岐国)とするのは牽強付会、池内氏の詭弁である。

 池内敏氏は、この外にも「この州」の用例を『隠州視聴合記』全体に求め、「この州」は隠州を指しており、「国代記」の「この州」も隠州である、と主張している。だが『隠州視聴合記』は隠州について述べている。「国代記」以外の「この州」が、隠州を指すのは自然である。それを文脈的に何ら関係のない「国代記」の「この州」に当て嵌め、これを「隠州」と強弁するのは、漢文を読んでいないからである。齋藤豊仙が「この州を限り」としたのは、「この州」からは異国の「朝鮮が見える」からであった。その齋藤豊仙の意図に反し、「国代記」の「この州」を隠州とするのは、奇弁である。漢文では、「州」は「しま(島)」とも読む。漢文は漢文として読み、文意に従って「国代記」の「この州」を竹島(欝陵島)と読んでいれば、問題はなかったのである。その漢文読解の常識を無視し、「国代記」の「この州」を「隠州」と批判した東北アジア歴史財団も、非常識である。


 (注1)安鼎福『星湖○(人偏に塞)説類選』(「明文堂」刊)巻九下、「欝陵島」301頁。

 (注2)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」(『青丘学研究論集』25.2001年3月)。同論文は2005年12月、韓国の『独島論文翻訳選II』(タダミディア)に収録された。

 (注3)池内敏「竹島/独島論争とは何か」(『歴史評論』2011年5月号)25頁。

 

【韓国側の批判3】

17世紀末、日本の幕府が欝陵島渡海を禁止する時、「竹島(欝陵島)の外に、鳥取藩に付属する島があるのか」と質問した際、鳥取藩は「竹島(欝陵島)、松島(独島)は無論、その他に付属する島はない」と回答し、欝陵島と独島が鳥取藩の所属ではないことを明らかにした。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 対馬藩は元禄6年(1693年)以来、幕府の命を奉じ、朝鮮政府と竹島(欝陵島)の領有権を争ってきた。だが朝鮮側との交渉に臨んだ対馬藩は、その竹島が朝鮮の『東国輿地勝覧』に記された欝陵島であることを知っていた。そこで藩主宗義倫の夭折を機に、交渉の中断を幕府に願い出ることにしたのである。対馬藩の進言を容れた幕府は、元禄9年(1696年)1月28日、竹島渡海を禁ずるが、それに先立ち、幕府は前年の12月24日、鳥取藩に対し、竹島について質している。東北アジア歴史財団が「欝陵島と独島が鳥取藩の所属ではないことを明らかにした」とするのは、その時の鳥取藩の返答である。

 だがこの返答内容は、鳥取藩としては当然であった。鳥取藩の返答の中に、「松平新太郎領国の節、御奉書をもって仰せ付けられ候旨承り候」(松平新太郎が鳥取藩の領地を与えられた時、奉書によって渡海が許されたと聞いている)とあることでも明らかなように、竹島(欝陵島)と松島(竹島)は、鳥取藩の領地ではなかったからだ。松平新太郎(池田光政)が因幡・伯耆国(鳥取藩)三十二万石を賜るのは元和3年(1617年)3月6日。一方、鳥取藩米子の大谷・村川両家が竹島渡海を許されるのは、池田光政が因幡・伯耆国に入部した元和4年(1618年)3月14日以後である。幕府から与えられた鳥取藩の領地には、最初から竹島は含まれていなかったのである。これは人見竹洞の『添長日録』にもあるように、米子の村川市兵衛が竹島への渡海許可を得るのは、松平新太郎が因幡・伯耆国に入封する際、監使の阿倍四郎五郎正之の斡旋で実現したものだからである。

 従って、幕府から「竹島(欝陵島)は、いつの頃から因幡・伯耆国に付属したのか。松平新太郎が領地を拝領する以前からか。それともそれ以後か」と問われれば、鳥取藩としては「竹島(欝陵島)、松島(独島)は無論、その他に付属する島はない」と答えて当然なのである。これを拡大解釈し、鳥取藩の返答を根拠に、日本側が竹島と松島を日本領から除外した証拠とするのは、虚偽の歴史の捏造である。

 


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